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道元の禅

20165/18

映画『禅』で道元と禅の本質を垣間見る

Amazonのプライム会員になると、Amazonビデオのプライム特典で、無料で見られる映画がたくさんあります。
その中に『禅』がありました。

道元役は、その当時の中村勘太郎、現在の六代目の中村勘九郎のことです。この映画は鎌倉時代の曹洞宗・永平寺に至るまでの道元禅師の物語です。
道元を見ることで、曹洞宗の禅とは何かを少し理解できる映画になっていると思います。
私は日本人として先人の生き様と尊さに涙しました。
左の画像をクリックすると、Amazonビデオの『禅』が見られるようにしてあります。
簡単なストーリーは、角川映画のサイトのここにあります。
是非ご覧になってください。私は2度も見てしまいました。

 

道元の禅について知る

いろんな宗教がありますが、どの宗教も心の安らぎを求めています。
道元の禅では只管打坐という方法を用いて心の安らぎを得る、ということだと理解しました。
そのあたりについて書こうと思います。

 

映画を観る前から、禅=座禅(坐禅)というイメージはありました。
道元は禅の中でも現代の曹洞宗にあたります。禅の宗派によって手段が違うようです。
余談ですが、道元は自ら特定の宗派名を称することを禁じていて、どうしてもというならば「仏心宗」つまり『禅』と称するようにと言われていたらしいのです。『曹洞宗』という名称は第四祖からだとか。話を戻します。

 

只管打坐(しかんたざ)=ただひたすら座禅すること

その目的は何なのか?

ひたすら座ることで、様々な欲と離れる=無になることで、自分の中にある仏と出会うことができ、それが心の安らぎとなる。
自分のなかにいる仏とは、すなわち、あるがままの真実の姿、自分の純心な本当の私、何ものにも囚われない無の状態の私。
それが一番自然な自分の姿だから心が安らぐ。それが悟り、というのでしょうか。

無・無欲といっても、世俗の無欲と禅の世界の無はちょっと違うようです。
欲があるからその裏返しに無欲という言葉になりますが、禅の場合の無は、欲も無欲もなくそもそもどこにも何もない状態のことを指すと思われます。究極、無というものも本来は存在しない。他で「空」と表現しているのを聞いたことがあります。

映画の中で、道元と怨霊に悩まされている北条時頼との場面は印象的です。
ありのままの自分を受け入れ、煩悩を捨て、無になれという意味で、最終的には坐禅をします。

お布施や托鉢

身体で稼いだお金をお布施として差し出すおりんという女性に、「命の次に大事であるお金を捨てるのは尊いことだ」といって感謝していました。
捨てる??と驚きましたが、「してあげた」という念や執着を一切残さないようにという意図があるようなのです。調べたところ、喜んで捨てる『喜捨』、というそうなのです。おそらく托鉢も、修行僧の側にはどんな修行にあたるのかはわかりませんが、出す方は喜捨の気持ちで、なのですね。
道元のいる寺は檀家がいなくて修行僧も多いとあって極貧、その状況でただひたすら修行。
修行を続ける意味は何なのか?と思っていましたが、悟りを開き修行を積むと、最終的にはこのように人を救えるようになるのかと感じ、すがすがしい気持ちになりました。

 

 

 

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